「なるほど……」
紅茶をひと口飲んだ弥生〈やよい〉が、大きくうなずいた。
「悠人〈ゆうと〉さんの幼馴染の娘……えへっ、えへへへへっ」
「……なんか知らんが、また変な妄想をしているようだな」
「いえいえ悠人さん。私はただ、新しいヲタの属性が生まれた瞬間に立ち会えたと喜んでる次第でして。これまで幼馴染や妹、委員長や後輩萌えは多く語られてきましたが、なるほどなるほど……確かにヲタも30代40代が増えてきて、妄想にも限界が生じてきた昨今……その中での幼馴染の娘属性とはあまりにも必然でしかも斬新……」
目が爛々と輝いていく。
「しかも幼馴染鉄板の体育会系ボディ! スレンダーかつ微乳、我々萌豚の妄想が具現化したようなキャラは正に至福! えへっ、えへへへへっ」
舐めまわすようなその視線に、小鳥〈ことり〉が思わず胸を隠した。
「弥生ちゃん、おっさんの目になってるぞ」
「ぐへへへへっ、お嬢ちゃん可愛いねぇ」
「……悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、弥生さんって」
「ああ、悪い人じゃない。いい人なんだ、いい人なんだけど……何と言うかその、確か変態淑女とか自分で言ってたな。人類は皆ヘンタイだから恥ずかしくない、とかなんとか……自分に正直であり続けたら、こうなってしまったらしい」
「ひゃっ!」
小鳥が叫ぶ。いつの間にか弥生が近付き、太腿を撫でていた。
「おおっ、この引き締まった太腿……この太腿は陸上部部長クラスとお見受けしました。触ってもいいですか小鳥さん。て、もう触ってますけど」
「いい加減にしろ」
そう言って、悠人が再び弥生の額に人差し指を突きつけた。
「びっくりした……でも弥生さん、当たってますよ。私中学の時、陸上部の部長でした」
「種目は短距離」
「そう、短距離でした」
「やはり……どこまでも我々を裏切らないお方。舐めてもいいっすか」
ゴンッ! と弥生の頭に衝撃が走る。悠人のゲンコツだった。
小鳥は赤面しながら笑った。「悠兄ちゃん、近所にこんな面白い人いたんだね」
「ああ。でもここまでのヘンタイ値を出したのは初めてだ。よっぽど小鳥のキャラが気に入ったらしい」
「うんうん。小鳥も弥生さんのこと、好きになったよ。弥生さん、これからよろしくお願いしますね」
「ふぅむ、萌えキャラにしてこの好感度とは……悠人さん、このお方は只者ではないですな」
「このお方って、弥生ちゃんと二つしか違わないだろ」
「でもでも、弥生さんのキャラもかなり立ってますよね。眼鏡にポニーテール、しかも巨乳とか」
「ほほう。小鳥さんにも心得があるようですな」
「悠兄ちゃんの嫁になるんです。その道に進まずしてどうしましょう」
「なんだか横で聞いてたら、君らの会話って本当にディープだよな」
「弥生さんも真性だよね」
「ああ。なんでもこの人、それなりに有名人らしいしな」
「そうなの?」
「俺は知らなかったけど、BMBの窯本〈かまもと〉やおいって同人作家らしいんだ」
「窯本先生っ!」
その言葉に、いきなり小鳥のテンションがマックスになった。
「な、なんだ小鳥、知ってるのか」
「勿論だよ悠兄ちゃん! 窯本先生って言ったら今をときめく超売れっ子先生じゃない! すごいすごい! 小鳥、憧れの先生に会っちゃってる!」
「いえいえ小鳥さん、何もそこまで」
「謙遜! 小鳥、先生のファンなんだから! 先生の『ナイト・シド』は全部持ってるんだから!」
キラキラ瞳を輝かせる小鳥の横で、悠人が頭を抱える。
(小百合……心労、察するに余りあるぞ……)
小鳥の勢いに圧倒され、今度は弥生が赤面した。
「なんだか照れますね」
そう言って頭を掻く。
玄関先で見た時に芽生えかけた警戒心が、話していくにつれて好感に変わっていく。「悠人さん」
「どうかした?」
「どうやら私、小鳥さんのことを好きになってしまったようです。勿論恋のライバルとしてのスタンスは変わりませんが、小鳥さんとはいいお友達になれそうです」
「ほんとに!」
小鳥が弥生に抱きつく。弥生も負けじと小鳥を抱きしめた。
「小鳥さん! 共にヲタ道を目指しつつ、よき恋のライバルになりましょう!」
「うんっ!」
悠人の前で、お隣さんと幼馴染の娘が抱きあって妙なことを言っている。
「盛り上がってるところ悪いんだけど」
と悠人が、少し戸惑った表情で言った。
「さっきから、馴染みのない言葉が出てるもんで……」
「なんでしょうか悠人さん」
「さっきから、その……弥生ちゃんが恋の……ゴホンッ……ライバル云々を連呼してる訳だけど、それはその、つまり……」
その言葉に、弥生が顔を一気に赤くなった。
(今の状況、よく考えたら私……悠人さんに間接的に告白してることになってる……勢いとは言え、こんな形で……)
弥生が勢いよく立ち上がった。
「きょ、きょ、今日はこれにて失礼します! また明日、お会いしましょう! 失礼しますた!」
そう言って一目散に玄関に走り、
「おやすみなさい!」
一度振り返り、敬礼をして出ていった。
* * *「あ、お土産……」
戦利品が置かれたままになっていた。
「これ、持っていった方がいいかな」
「いや、ある意味これは弥生ちゃんの全てだけど……今日はそっとしておいてあげよう。また取りにくるだろうから」
「分かった。でも悠兄ちゃん、いい人だよね、弥生さんって」
「あ、ああ……」
悠人が動揺を隠しながらうなずいた。
(弥生ちゃんって、そんな風に俺を見てたのか……明日からどんな顔して会えばいいんだ……)
一方弥生は、家に入るとベッドに潜り込み、シドの抱き枕を抱きしめていた。
体が熱い。動悸も静まらなかった。 * * *明日は月曜日。仕事が始まる。
大変な週末だったけど、ある意味明日からが小鳥との生活の始まりだ。 小鳥のアルバイトのことも気になる。しばらく色々と大変だな……そう感じながら、悠人が自分に問いかけた。他人のことでの気苦労なんて、何十年ぶりだろうか。
今までは職場と家の往復、家では人と話すこともなく、アニメやフィギュア作りに明け暮れていた。
自分にとっては楽しい日々で、煩わしい人間関係もなく楽な毎日だったが、考えようによっては希薄な日々とも言えた。 小鳥が来てからの日々はバタバタしっぱなしで、ろくに自分の時間もなかった。 でも不思議と、そのことを苦痛に感じていない自分がいた。そのことが不思議だった。「そろそろ寝よっか、悠兄ちゃん」
「ああ。小鳥もバイトだしな」
その時、悠人のスマホにメールの着信音がなった。
「弥生ちゃんかな」
悠人がメールを開く。
「時は来た。出迎え無用 カーネル」
「カーネル……ついに来るか、ここに」
悠人が苦笑する。
「しかし……なかなかのタイミングだな、カーネル」
「誰から?」
「ああ、ネット仲間のカーネルってやつから。もう一年ぐらい付き合ってるんだけど、なかなかいいやつなんだ。近いうちに会ってみようって言ってたんだけど、こっちに来るみたいだ」
「カーネル……それって男の人?」
「ああ。まだ俺も会ったことはないんだけどな。小鳥のひとつ年上だったかな、こいつ。小鳥も気に入ると思うよ」
「そうなんだ。ひとつ年上のお友達か」
悠人が笑顔で、「待っている。20時以降なら伝えた住所にいる。また来る時に連絡頼む」そう返信した。「悠〈ゆう〉兄ちゃん、泣いてるの?」 夕焼けに赤く染まった公園。 ベンチに座り、肩を震わせている男に少女が囁く。「悠兄ちゃん寂しいの? だったら小鳥〈ことり〉が、悠兄ちゃんのお嫁さんになってあげる」 そう言って、少女が男の頭をそっと抱きしめた。 * * * 3月3日。 終業のベルがなり、作業を終えた彼、工藤悠人〈くどう・ゆうと〉が事務所に戻ってきた。「お疲れ様でした、悠人さん」 悠人が戻ってくるのを待ち構えていた、事務員の白河菜々美〈しらかわ・ななみ〉が悠人にお茶を差し出す。「ありがとう、菜々美ちゃん」 悠人が笑顔で応え、湯飲みに口をつける。 その横顔を見つめながら、菜々美が深夜アニメ『学園剣士隊』について話し出した。感想がしっかり伝わるよう、一気にまくしたてる。「やっぱり悠人さんの言ってた通り、生徒会が絡んでるみたいでしたよね。最後のシルエット、あれって生徒会長ですよね」 悠人に心を寄せる菜々美にとって、悠人と話せる昼休み、そして終業後の僅かな時間は貴重だった。 工場主任で、作業が終わってから書類整理の仕事が残っていると分かってはいるが、限られた時間、少しでも悠人と話したいとの思いに負け、こうして話し込んでしまうのだった。 机上の納品書に判を押しながら、悠人もそんな菜々美の話に、いつも笑顔でうなずいていた。 アニメの話がひと段落ついた所で、菜々美が映画の話を切り出してきた。「実家からまた送ってきたんですよ、優待券」「ほんと、よく送ってきてくれるよね、菜々美ちゃんのお母さん」「民宿組合からよくもらうんですよね。で、よかったらなんですけど……悠人さん、また一緒に行ってもらえませんか」「そうだね……次の連休あたりになら」「あ、ありがとうございます!」 菜々美が嬉しそうに笑った。 * * * コンビニに入った悠人は、ハンバーグ弁当と味噌汁、コーラをカゴに入れてレジに向かった。 家のすぐ近くにあるこのコンビニの店長、山本とはここに越してきた頃からの付き合いだった。「奥さんが留守だと大変だね。弥生〈やよい〉ちゃんは今、東京だったよね」「ええ、池袋の方に行ってるそうです。あさってには帰ってきますけど、また遠征話で盛り上がりそうです……って、だから嫁さんじゃないですから」「あはははっ。早く結婚しちゃいなよ、あん
「何の冗談だ、これは……」 この40年、幼馴染の小百合〈さゆり〉以外に心を奪われたことのなかった魔法使いの俺に今、こいつは何を言った? アニメにしてもクレームものだぞ。 幼馴染からのとんでもない話に、悠人〈ゆうと〉の頭は混乱した。その悠人に、小鳥〈ことり〉が背後から抱きついてきた。 さっきとは違う感覚。自分との結婚を望む少女の抱擁に、悠人が顔を真っ赤にして小鳥を振りほどいた。「待て待て待て待て、冗談にしても質が悪い。エイプリルフールもまだ先だ」「大好き」「人の話を聞けえええっ」「聞いてるけど……あ、ひょっとして悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、好きな人とか付き合ってる人とかいるの? お母さん以外に」「いや、そんなやつはいないが……」「よかった、なら小鳥にもチャンスあるよね。3ヶ月の間に小鳥の想い、いっぱい伝えてあげるからね」 悠人の混乱ぶりを全スルーして、小鳥がそう言って無邪気に笑った。 * * * 時計を見ると22時をまわっていた。「もうこんな時間。ご飯まだだよね、ごめんね」 そう言って小鳥は、悠人が買ってきたコンビニ弁当を電子レンジに入れた。「悠兄ちゃん、こんなのばっかり食べてるの?」「腹が膨らめばなんでもいいんだよ、俺は」「そっかぁ……やっぱり男の一人暮らしはダメだね。これからは小鳥が毎日、おいしいもの作ってあげるからね」 そう言って小鳥は、リュックからパンを出した。「そういうお前はそれなのか」「うん。今日はバタバタすると思ってたから」 悠人がそのパンを取り上げる。「育ち盛りがこんなんでいい訳ないだろ。これ食べろ」 そう言って、レンジから出した弁当を小鳥の前に置いた。「でもこれは、悠兄ちゃんのお弁当で」「俺は腹が膨らめば何でもいい、そう言っただろ。お前こそしっかり食べないと。色々とその……栄養偏ってるみたいだし」 と言いながら、思わず胸に視線をやってしまった。それに気付いた小鳥が赤面し、慌てて胸を隠す。「こ、これはまだ、まだ育ってる途中だから!」「いいから食べろ。明日は土曜で休みだけど、それでももうこんな時間だ」「じゃあ、ここにいてもいいの?」「いいも何も、もう来てしまったんだ。嫁さん云々はともかくとして、せっかくの卒業旅行だろ? いいよ、しばらくいても」「ありがとう、悠兄ちゃん!」 そう言って小鳥がま
悠人〈ゆうと〉と小鳥〈ことり〉の母、水瀬小百合〈みなせ・さゆり〉は物心ついた時からいつも一緒だった。 閑静な住宅街にたたずむ一軒家。それが悠人の生まれ育った家だった。その隣に二階建てのハイツがあった。 電機メーカー工場の社宅。そこに小百合は住んでいた。 二人はいつも一緒だった。互いの家を行き来し、一緒にいることが当たり前だった。 物静かで運動音痴、いつも家で本を読んでいる悠人とは対照的に、小百合はいつも元気に走り回る少女だった。 言いたいことをはっきりと口に出す小百合と、いつも周りを気にして、自分の思いを口にしない悠人。そんな相反する二人は、同じ年にも関わらず、小百合が姉で悠人が弟、そんな奇妙な関係の中でバランスを保っていた。 * * * 小学校に入ると、朝の弱い悠人を起こしに、毎日小百合は迎えに来るようになった。 赤と黒のランドセルが仲良く並んで歩く姿は、そのまま6年間続いた。 しかしそれが悠人のいじめにつながった。 活発でクラスの中心になり、男子からも人気の高かった小百合と一緒にいる悠人は、当然のように男子生徒の嫉妬の対象となった。クラスの男子から「いつも女と一緒にいる泣き虫」とバカにされる様になった。 逆らったりすると余計にいじめられる、そう思い、悠人はその中傷を黙って受け入れていた。クラスの違う小百合からそのことを問いただされることもあったが、そのことについて語ろうとはしなかった。 悠人は自分にコンプレックスを持っていた。運動も出来ず、持病の喘息の発作も定期的に起こり、ある意味いじめの対象になっても仕方ない存在だと思っていた。 そんな自分と一緒にいてくれる小百合のことが、本当に好きだった。異性としてはまだ意識してなかったが、彼にとって一番必要な、大切な存在だった。だからこそ小百合に、彼女が原因でいじめられていると告げることは出来なかった。心配もかけたくなかった。 * * * 悠人は自然と、そんな現実から自分を守る習性を身につけていった。きっかけは小百合と、小百合の父と三人で行ったファンタジー映画だった。 日常生活においてパッとしない少年が、ある事件を境に魔法を使う能力に目覚め、仲間を集める旅に出て、世界を守る為に魔物と戦う物語。その世界観に、悠人は夢中になった。 それから悠人は、その類の書物をむさぼるように読
あの歌が聞こえる。 まどろみの中、その優しい歌声に悠人〈ゆうと〉がゆっくりと目を開けた。「小百合〈さゆり〉……」 歌声の主は小百合の一人娘、小鳥〈ことり〉。(小百合そっくりだな……) 小鳥は台所で朝食の準備をしていた。 そういえば昨日から、小鳥が家に来てるんだったな……そのせいか。あんな夢を見たのは……悠人の頭が徐々に覚醒してくる。 * * * ゆっくりと起き上がり、机の上の煙草に手をやり、火をつけた。その気配に気付いた小鳥が、勢いよく部屋に入り悠人に抱きついた。「おはよー、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん!」「わたったったったっ……待て待て小鳥、火、火っ……」「だめだよ悠兄ちゃん、寝起きにいきなり煙草吸ったりしたら。寝起きにはまず水分摂らないと。癌になる確率が上がるんだからね」 どこでそんな知識を仕入れてるんだか……大体癌のことを言い出したら、煙草そのものが駄目だろうに。 そう思いながら煙草をもみ消す。「あーっ、そうだった!」 いきなり小鳥が大声を上げた。「なんだどうした」「悠兄ちゃん、なんで隣の部屋に移ってたのよ。起きたら隣に悠兄ちゃんがいないから、寂しくて泣きそうになったんだからね。朝から半泣きで探し回って、最っ低ーな目覚めだったんだから。プンプン」「……プンプンって擬音を口にするやつ、初めて見たぞ……まぁあれだ、小鳥。寂しいかもしれないけど、同じ屋根の下なんだから我慢してくれ。いくら小鳥でも、流石に18の娘と一緒には寝れんよ」「結婚するんだからいいじゃない。それに歳も18だし、条令もクリアしてる訳なんだから」「条令ってお前、何の話を……この話は長くなりそうだな。朝ごはん作ってくれたんだよな、食べようか」 話をかわされ、少し不満気な表情を浮かべた小鳥だったが、「だね。まずは食べよっか」 そう言って立ち上がった。 * * * 顔を洗い、歯を磨いて椅子に座る。小鳥が手を合わせているので悠人もそれにならった。「いっただっきまーす」 なんで朝からこんなに元気なんだ。こんなところまで母親ゆずりなのか……苦笑しながら悠人が食パンを口にする。「そうだ悠兄ちゃん。悠兄ちゃんには朝から言うことてんこ盛りだよ」「なんだ、何でも言ってみろ」「威張ってもダメ。悠兄ちゃん、冷蔵庫の中に物なさすぎ。コーラとお茶だけってどう言うこと
「さ……流石に買いすぎだろ……」 ここに越してきた時でも、ここまで買い物をした記憶はないぞ。 そう思いながら悠人が鍵を開けようとした時、ドアの隙間に挿してある一枚の紙に気付いた。 宅配便の不在表で、家に入り連絡すると、15分ほどして業者が荷物を持ってきた。荷物はダンボール二箱と、細長く厳重に梱包された筒状の箱だった。 ダンボールには小鳥の服、その他もろもろの日用品が入っていた。「女子にしては少ない荷物だな。まぁ3ヶ月だからこんな物か……で、これは何なんだ?」「ふっふーん、これはね」 そう言って小鳥が筒状の梱包を外していくと、中から三脚と望遠鏡が出てきた。「結構高そうなやつだな」「これは小鳥がバイトしまくって買った宝物。悠兄ちゃんの天使の次に大切なものなんだ。悠兄ちゃんと一緒に星が見たかったから、これは持っていこうって決めてたんだ。でもね、そのつもりだったんだけど…… ここって星、ほとんど見えないんだね」「昔はもう少し見えてたんだけどな、街が明るくなりすぎたから。過疎ってきてるとはいえ、これでも都会なんだよな。 ま、3ヶ月ここにいるんだから、そのうち山にでも連れていってやるよ」「楽しみにしてるね。でも悠兄ちゃん、春先でこんなんだったら、夏なんて見える星ないんじゃない?」「間違いなく見えるのは、月ぐらいかな」 その言葉に反応した小鳥が、「月って言えば……」 そう言ってダンボールの中に手を入れ、冊子のような物を取り出した。「じゃーん!」「だから……じゃーんなんて擬音、リアルで口にするやつはいないぞ……ってこれ」 それは月の土地権利証書だった。「お前、月の土地持ってたのか」「悠兄ちゃん、ここここ。ここ見てよ」 小鳥が指差すそこは権利者の欄だった。そこには悠人の名前が記載されていた。「俺の土地なのか?」「悠兄ちゃん、小鳥に約束してくれたでしょ? 大きくなったら小鳥と結婚して、月で一緒に暮らしてあげるって。だから小鳥、未来の旦那様の名義で買ったんだ」「なんとまぁ、5歳の時の約束をしっかり覚えていたとはな。ちょっと待ってろ」 悠人は笑って立ち上がり、洋間に入っていった。ごそごそと音がしてしばらくすると、小鳥が手にしているのと同じものを持ってきた。「ほら」「え……?」 悠人が開いたその権利証書には、小鳥の名前が記載さ
悠人〈ゆうと〉と川嶋弥生〈かわしま・やよい〉の出会いは、二年ほど前になる。 大学入学を機に悠人の隣室、702号室に越してきた弥生。 入居の挨拶で悠人の家に来た時、焼き物で有名な滋賀県の信楽〈しがらき〉から越してきたことを弥生は話していた。 眼鏡の似合うポニーテールの女の子。どこか垢抜けていない、素朴で純粋そうな子、と言うのが悠人の印象だった。 隣同士なので顔を合わせることも少なくなかったが、互いに挨拶をする程度で、それ以上の関係になるとはお互い思ってもいなかった。 * * * それから一年近くたった冬のある日。 悠人が仕事から帰ってくると、玄関前で鞄の中をひっくり返し、途方に暮れている弥生を発見した。「……」 こんな鉄板イベント、実際見ることになるとは。 鼻の頭を真っ赤にし、弥生が溜息をもらす。相当長い時間、そうしているように見受けられた。 白いコートタイプのダウンジャケットの前を開け、紫のハイネックが見え隠れするそこから、大きな胸であることが見てとれた。「あの……こんばんは、えーっと……お隣さん?」 悠人は弥生の名前を覚えていなかった。 人付き合いに無頓着な悠人にとって、他人の名前を覚える行為は特に必要ではなかったからだ。会話をすることもなく、「お隣さん」で十分だったのだ。 悠人の声に顔を上げた弥生。その瞳は潤んでいた。「お隣さんって……酷いじゃないですか工藤さん。一年も住んでるのに私の名前、覚えてくれてないんですか? 私は弥生、川嶋弥生です」(ええっ? そっち? 引っ掛かるとこ、そっち?) そう思いつつ、悠人が頭を掻きながら言った。「あ、いやすいません、川嶋さん……じゃなしに、こんな寒い中、こんなところで何してるんですか」「あ、そうでしたそうでした。実は鍵を無くしてしまったみたいで、家に入れなくて困ってたんです。くすん」(……くすんって擬音を口にするやつが、リアルに生息していたとは……)「スペアの鍵は?」「家の中でお休み中です」「それはそれは、意味のないスペアで」「ううっ、酷いお言葉……」「いつからこうしてるんですか?」「一時間ほど……」「凍死しますよこんな日に。お友達の家とか、助けてもらえるところはないんですか?」「友達の家も結構遠くて……というかもう無理、動けないです。携帯の充電もきれてま
「BMB……?」「はい、サークル名です。ボーイ・ミーツ・ボーイの略でBMB。そこで絵師をしております。窯本〈かまもと〉やおいはペンネームであります」「ボーイ・ミーツ・ボーイ、と言うことは……」「はい、BLであります! びしっ!」 にんまりと笑った弥生〈やよい〉が敬礼する。「……びしって擬音、普通は口にしないと思うけど」「私は中学の頃から、ヲタ道を日々研鑽してまいりました」(いやいや、世間にヲタ道なんて言葉はないから)「そして高校でBMBと出会い、その本拠地のある大学に入った次第であります。 我々の目的はただひとつ、いつかこのヲタ道を、混迷の闇をさまよう日本再生の柱にすること。BMBはその為に日々戦う、武闘派集団なのであります。びしっ!」 弥生のマシンガントークに、悠人〈ゆうと〉が呆気にとられる。「そして思うに悠人さん、あなたにはヲタとしての血が脈々と流れているとお見受けいたしました。ゴッドゴーレムの自作とは、かなりレベルの高いヲタ値……言わばそう、あなたこそヲタ道の純血派なのです!」「じゅ……純血派?」「そうです! 悠人さんは遡ること数十年、ヲタたちが市民権を得ておらず、社会から孤立し、なおかつ活動出来る場が少ない草創の時代よりヲタ道を歩まれてきた、正に勇者様。あなたのような勇者様がいなければ、今私たちがこうして闊歩〈かっぽ〉している世界は存在しなかったのであります!」「まぁ確かに……俺がこの世界に入った頃には、同人誌なんてものもほとんどなかったし、ヲタクの凶悪事件なんかもあったりしたからね。結構冷たい目で見られていたよ」「だしょだしょ!」「いや、ここは普通に『でしょ』でいいから」「悠人さんの世代に比べれば生ぬるいですが、これまで私も、それなりに疎外感なるものを感じながら生きてまいりました。 その孤高の戦いの中、いつか出会えるであろう真の勇者様をずっと心に思い描いていたのです。それがまさか、こんな近くにおられたとは……これは運命です! 私は今日、この日の為に
日曜の昼下がり。 小鳥〈ことり〉がベランダで、歌を口ずさみながら洗濯物を干していた。 いつも室内で干している悠人〈ゆうと〉にとって、ベランダが洗濯物でうまっていくのは新鮮な眺めだった。気持ちのいい風が入り込む中、悠人は煙草を吸いながら小鳥が干すのを眺めていた。 * * *「悠兄〈ゆうにい〉ちゃんって、いつも同じ服を着てるよね。どうして?」 昨日の夜、小鳥に聞かれたことを思い出す。「ああこれな。俺は下着も服も靴も、同じものしか持ってないんだ」「……どういうこと?」「小百合〈さゆり〉から聞いてないのか? 色んな服があったら着る時に悩むだろ? そんなことで悩むのがバカらしいから、全部同じにしてるんだ。年に一回、下着も服もセットにしてまとめ買い。合理的だろ?」「うーん、そんな人に会ったの初めてだから分からないけど……でもね、その日の気分で服を変えたりするのって楽しくない? 着る服で気分が変わることもあるし」「よく言われるんだけどな。なんかそう言うのって苦手と言うか、興味ないんだよな」「それに悠兄ちゃん、真っ黒だし」「だな」「ティーシャツも黒、ジーパンも黒、パンツも靴下もワイシャツも靴も、ジャンバーまで全部黒。どこかの危ない人みたい」「落ち着くんだよな、黒って」「じゃあ小鳥が今度、悠兄ちゃんに服をプレゼントしてあげるよ。小鳥が買ったら悠兄ちゃん、着てくれる?」「うーん……会社の子にも同じこと言われたけど、その時も結局返事出来なかったんだよな。着るかどうかの自信がないから」「じゃあ悠兄ちゃん、気に入らなければ着なくていいってことなら、買ってもいい?」「いやまぁ……買ってくれるのは嬉しいけど、でも俺にプレゼントしても甲斐がないぞ。自分の服を買った方がいいと思うけど」「大丈夫だよ。小鳥にはお母さんからもらったあらゆるデータがあるから。悠兄ちゃんが着たくなる服、探してきてあげる」「……お前は一体、小百合から何を吹き込まれてるん
「なるほど……」 紅茶をひと口飲んだ弥生〈やよい〉が、大きくうなずいた。「悠人〈ゆうと〉さんの幼馴染の娘……えへっ、えへへへへっ」「……なんか知らんが、また変な妄想をしているようだな」「いえいえ悠人さん。私はただ、新しいヲタの属性が生まれた瞬間に立ち会えたと喜んでる次第でして。これまで幼馴染や妹、委員長や後輩萌えは多く語られてきましたが、なるほどなるほど……確かにヲタも30代40代が増えてきて、妄想にも限界が生じてきた昨今……その中での幼馴染の娘属性とはあまりにも必然でしかも斬新……」 目が爛々と輝いていく。「しかも幼馴染鉄板の体育会系ボディ! スレンダーかつ微乳、我々萌豚の妄想が具現化したようなキャラは正に至福! えへっ、えへへへへっ」 舐めまわすようなその視線に、小鳥〈ことり〉が思わず胸を隠した。「弥生ちゃん、おっさんの目になってるぞ」「ぐへへへへっ、お嬢ちゃん可愛いねぇ」「……悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、弥生さんって」「ああ、悪い人じゃない。いい人なんだ、いい人なんだけど……何と言うかその、確か変態淑女とか自分で言ってたな。人類は皆ヘンタイだから恥ずかしくない、とかなんとか……自分に正直であり続けたら、こうなってしまったらしい」「ひゃっ!」 小鳥が叫ぶ。いつの間にか弥生が近付き、太腿を撫でていた。「おおっ、この引き締まった太腿……この太腿は陸上部部長クラスとお見受けしました。触ってもいいですか小鳥さん。て、もう触ってますけど」「いい加減にしろ」 そう言って、悠人が再び弥生の額に人差し指を突きつけた。「びっくりした……でも弥生さん、当たってますよ。私中学の時、陸上部の部長でした」「種目は短距離」「そう、短距離でした」「やはり……どこまでも我々を裏切らないお方。舐めてもいいっすか」 ゴンッ! と弥生の頭に衝撃が走る。悠人のゲンコツだった。 小鳥は赤面しながら笑った。「悠兄ちゃ
日曜の昼下がり。 小鳥〈ことり〉がベランダで、歌を口ずさみながら洗濯物を干していた。 いつも室内で干している悠人〈ゆうと〉にとって、ベランダが洗濯物でうまっていくのは新鮮な眺めだった。気持ちのいい風が入り込む中、悠人は煙草を吸いながら小鳥が干すのを眺めていた。 * * *「悠兄〈ゆうにい〉ちゃんって、いつも同じ服を着てるよね。どうして?」 昨日の夜、小鳥に聞かれたことを思い出す。「ああこれな。俺は下着も服も靴も、同じものしか持ってないんだ」「……どういうこと?」「小百合〈さゆり〉から聞いてないのか? 色んな服があったら着る時に悩むだろ? そんなことで悩むのがバカらしいから、全部同じにしてるんだ。年に一回、下着も服もセットにしてまとめ買い。合理的だろ?」「うーん、そんな人に会ったの初めてだから分からないけど……でもね、その日の気分で服を変えたりするのって楽しくない? 着る服で気分が変わることもあるし」「よく言われるんだけどな。なんかそう言うのって苦手と言うか、興味ないんだよな」「それに悠兄ちゃん、真っ黒だし」「だな」「ティーシャツも黒、ジーパンも黒、パンツも靴下もワイシャツも靴も、ジャンバーまで全部黒。どこかの危ない人みたい」「落ち着くんだよな、黒って」「じゃあ小鳥が今度、悠兄ちゃんに服をプレゼントしてあげるよ。小鳥が買ったら悠兄ちゃん、着てくれる?」「うーん……会社の子にも同じこと言われたけど、その時も結局返事出来なかったんだよな。着るかどうかの自信がないから」「じゃあ悠兄ちゃん、気に入らなければ着なくていいってことなら、買ってもいい?」「いやまぁ……買ってくれるのは嬉しいけど、でも俺にプレゼントしても甲斐がないぞ。自分の服を買った方がいいと思うけど」「大丈夫だよ。小鳥にはお母さんからもらったあらゆるデータがあるから。悠兄ちゃんが着たくなる服、探してきてあげる」「……お前は一体、小百合から何を吹き込まれてるん
「BMB……?」「はい、サークル名です。ボーイ・ミーツ・ボーイの略でBMB。そこで絵師をしております。窯本〈かまもと〉やおいはペンネームであります」「ボーイ・ミーツ・ボーイ、と言うことは……」「はい、BLであります! びしっ!」 にんまりと笑った弥生〈やよい〉が敬礼する。「……びしって擬音、普通は口にしないと思うけど」「私は中学の頃から、ヲタ道を日々研鑽してまいりました」(いやいや、世間にヲタ道なんて言葉はないから)「そして高校でBMBと出会い、その本拠地のある大学に入った次第であります。 我々の目的はただひとつ、いつかこのヲタ道を、混迷の闇をさまよう日本再生の柱にすること。BMBはその為に日々戦う、武闘派集団なのであります。びしっ!」 弥生のマシンガントークに、悠人〈ゆうと〉が呆気にとられる。「そして思うに悠人さん、あなたにはヲタとしての血が脈々と流れているとお見受けいたしました。ゴッドゴーレムの自作とは、かなりレベルの高いヲタ値……言わばそう、あなたこそヲタ道の純血派なのです!」「じゅ……純血派?」「そうです! 悠人さんは遡ること数十年、ヲタたちが市民権を得ておらず、社会から孤立し、なおかつ活動出来る場が少ない草創の時代よりヲタ道を歩まれてきた、正に勇者様。あなたのような勇者様がいなければ、今私たちがこうして闊歩〈かっぽ〉している世界は存在しなかったのであります!」「まぁ確かに……俺がこの世界に入った頃には、同人誌なんてものもほとんどなかったし、ヲタクの凶悪事件なんかもあったりしたからね。結構冷たい目で見られていたよ」「だしょだしょ!」「いや、ここは普通に『でしょ』でいいから」「悠人さんの世代に比べれば生ぬるいですが、これまで私も、それなりに疎外感なるものを感じながら生きてまいりました。 その孤高の戦いの中、いつか出会えるであろう真の勇者様をずっと心に思い描いていたのです。それがまさか、こんな近くにおられたとは……これは運命です! 私は今日、この日の為に
悠人〈ゆうと〉と川嶋弥生〈かわしま・やよい〉の出会いは、二年ほど前になる。 大学入学を機に悠人の隣室、702号室に越してきた弥生。 入居の挨拶で悠人の家に来た時、焼き物で有名な滋賀県の信楽〈しがらき〉から越してきたことを弥生は話していた。 眼鏡の似合うポニーテールの女の子。どこか垢抜けていない、素朴で純粋そうな子、と言うのが悠人の印象だった。 隣同士なので顔を合わせることも少なくなかったが、互いに挨拶をする程度で、それ以上の関係になるとはお互い思ってもいなかった。 * * * それから一年近くたった冬のある日。 悠人が仕事から帰ってくると、玄関前で鞄の中をひっくり返し、途方に暮れている弥生を発見した。「……」 こんな鉄板イベント、実際見ることになるとは。 鼻の頭を真っ赤にし、弥生が溜息をもらす。相当長い時間、そうしているように見受けられた。 白いコートタイプのダウンジャケットの前を開け、紫のハイネックが見え隠れするそこから、大きな胸であることが見てとれた。「あの……こんばんは、えーっと……お隣さん?」 悠人は弥生の名前を覚えていなかった。 人付き合いに無頓着な悠人にとって、他人の名前を覚える行為は特に必要ではなかったからだ。会話をすることもなく、「お隣さん」で十分だったのだ。 悠人の声に顔を上げた弥生。その瞳は潤んでいた。「お隣さんって……酷いじゃないですか工藤さん。一年も住んでるのに私の名前、覚えてくれてないんですか? 私は弥生、川嶋弥生です」(ええっ? そっち? 引っ掛かるとこ、そっち?) そう思いつつ、悠人が頭を掻きながら言った。「あ、いやすいません、川嶋さん……じゃなしに、こんな寒い中、こんなところで何してるんですか」「あ、そうでしたそうでした。実は鍵を無くしてしまったみたいで、家に入れなくて困ってたんです。くすん」(……くすんって擬音を口にするやつが、リアルに生息していたとは……)「スペアの鍵は?」「家の中でお休み中です」「それはそれは、意味のないスペアで」「ううっ、酷いお言葉……」「いつからこうしてるんですか?」「一時間ほど……」「凍死しますよこんな日に。お友達の家とか、助けてもらえるところはないんですか?」「友達の家も結構遠くて……というかもう無理、動けないです。携帯の充電もきれてま
「さ……流石に買いすぎだろ……」 ここに越してきた時でも、ここまで買い物をした記憶はないぞ。 そう思いながら悠人が鍵を開けようとした時、ドアの隙間に挿してある一枚の紙に気付いた。 宅配便の不在表で、家に入り連絡すると、15分ほどして業者が荷物を持ってきた。荷物はダンボール二箱と、細長く厳重に梱包された筒状の箱だった。 ダンボールには小鳥の服、その他もろもろの日用品が入っていた。「女子にしては少ない荷物だな。まぁ3ヶ月だからこんな物か……で、これは何なんだ?」「ふっふーん、これはね」 そう言って小鳥が筒状の梱包を外していくと、中から三脚と望遠鏡が出てきた。「結構高そうなやつだな」「これは小鳥がバイトしまくって買った宝物。悠兄ちゃんの天使の次に大切なものなんだ。悠兄ちゃんと一緒に星が見たかったから、これは持っていこうって決めてたんだ。でもね、そのつもりだったんだけど…… ここって星、ほとんど見えないんだね」「昔はもう少し見えてたんだけどな、街が明るくなりすぎたから。過疎ってきてるとはいえ、これでも都会なんだよな。 ま、3ヶ月ここにいるんだから、そのうち山にでも連れていってやるよ」「楽しみにしてるね。でも悠兄ちゃん、春先でこんなんだったら、夏なんて見える星ないんじゃない?」「間違いなく見えるのは、月ぐらいかな」 その言葉に反応した小鳥が、「月って言えば……」 そう言ってダンボールの中に手を入れ、冊子のような物を取り出した。「じゃーん!」「だから……じゃーんなんて擬音、リアルで口にするやつはいないぞ……ってこれ」 それは月の土地権利証書だった。「お前、月の土地持ってたのか」「悠兄ちゃん、ここここ。ここ見てよ」 小鳥が指差すそこは権利者の欄だった。そこには悠人の名前が記載されていた。「俺の土地なのか?」「悠兄ちゃん、小鳥に約束してくれたでしょ? 大きくなったら小鳥と結婚して、月で一緒に暮らしてあげるって。だから小鳥、未来の旦那様の名義で買ったんだ」「なんとまぁ、5歳の時の約束をしっかり覚えていたとはな。ちょっと待ってろ」 悠人は笑って立ち上がり、洋間に入っていった。ごそごそと音がしてしばらくすると、小鳥が手にしているのと同じものを持ってきた。「ほら」「え……?」 悠人が開いたその権利証書には、小鳥の名前が記載さ
あの歌が聞こえる。 まどろみの中、その優しい歌声に悠人〈ゆうと〉がゆっくりと目を開けた。「小百合〈さゆり〉……」 歌声の主は小百合の一人娘、小鳥〈ことり〉。(小百合そっくりだな……) 小鳥は台所で朝食の準備をしていた。 そういえば昨日から、小鳥が家に来てるんだったな……そのせいか。あんな夢を見たのは……悠人の頭が徐々に覚醒してくる。 * * * ゆっくりと起き上がり、机の上の煙草に手をやり、火をつけた。その気配に気付いた小鳥が、勢いよく部屋に入り悠人に抱きついた。「おはよー、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん!」「わたったったったっ……待て待て小鳥、火、火っ……」「だめだよ悠兄ちゃん、寝起きにいきなり煙草吸ったりしたら。寝起きにはまず水分摂らないと。癌になる確率が上がるんだからね」 どこでそんな知識を仕入れてるんだか……大体癌のことを言い出したら、煙草そのものが駄目だろうに。 そう思いながら煙草をもみ消す。「あーっ、そうだった!」 いきなり小鳥が大声を上げた。「なんだどうした」「悠兄ちゃん、なんで隣の部屋に移ってたのよ。起きたら隣に悠兄ちゃんがいないから、寂しくて泣きそうになったんだからね。朝から半泣きで探し回って、最っ低ーな目覚めだったんだから。プンプン」「……プンプンって擬音を口にするやつ、初めて見たぞ……まぁあれだ、小鳥。寂しいかもしれないけど、同じ屋根の下なんだから我慢してくれ。いくら小鳥でも、流石に18の娘と一緒には寝れんよ」「結婚するんだからいいじゃない。それに歳も18だし、条令もクリアしてる訳なんだから」「条令ってお前、何の話を……この話は長くなりそうだな。朝ごはん作ってくれたんだよな、食べようか」 話をかわされ、少し不満気な表情を浮かべた小鳥だったが、「だね。まずは食べよっか」 そう言って立ち上がった。 * * * 顔を洗い、歯を磨いて椅子に座る。小鳥が手を合わせているので悠人もそれにならった。「いっただっきまーす」 なんで朝からこんなに元気なんだ。こんなところまで母親ゆずりなのか……苦笑しながら悠人が食パンを口にする。「そうだ悠兄ちゃん。悠兄ちゃんには朝から言うことてんこ盛りだよ」「なんだ、何でも言ってみろ」「威張ってもダメ。悠兄ちゃん、冷蔵庫の中に物なさすぎ。コーラとお茶だけってどう言うこと
悠人〈ゆうと〉と小鳥〈ことり〉の母、水瀬小百合〈みなせ・さゆり〉は物心ついた時からいつも一緒だった。 閑静な住宅街にたたずむ一軒家。それが悠人の生まれ育った家だった。その隣に二階建てのハイツがあった。 電機メーカー工場の社宅。そこに小百合は住んでいた。 二人はいつも一緒だった。互いの家を行き来し、一緒にいることが当たり前だった。 物静かで運動音痴、いつも家で本を読んでいる悠人とは対照的に、小百合はいつも元気に走り回る少女だった。 言いたいことをはっきりと口に出す小百合と、いつも周りを気にして、自分の思いを口にしない悠人。そんな相反する二人は、同じ年にも関わらず、小百合が姉で悠人が弟、そんな奇妙な関係の中でバランスを保っていた。 * * * 小学校に入ると、朝の弱い悠人を起こしに、毎日小百合は迎えに来るようになった。 赤と黒のランドセルが仲良く並んで歩く姿は、そのまま6年間続いた。 しかしそれが悠人のいじめにつながった。 活発でクラスの中心になり、男子からも人気の高かった小百合と一緒にいる悠人は、当然のように男子生徒の嫉妬の対象となった。クラスの男子から「いつも女と一緒にいる泣き虫」とバカにされる様になった。 逆らったりすると余計にいじめられる、そう思い、悠人はその中傷を黙って受け入れていた。クラスの違う小百合からそのことを問いただされることもあったが、そのことについて語ろうとはしなかった。 悠人は自分にコンプレックスを持っていた。運動も出来ず、持病の喘息の発作も定期的に起こり、ある意味いじめの対象になっても仕方ない存在だと思っていた。 そんな自分と一緒にいてくれる小百合のことが、本当に好きだった。異性としてはまだ意識してなかったが、彼にとって一番必要な、大切な存在だった。だからこそ小百合に、彼女が原因でいじめられていると告げることは出来なかった。心配もかけたくなかった。 * * * 悠人は自然と、そんな現実から自分を守る習性を身につけていった。きっかけは小百合と、小百合の父と三人で行ったファンタジー映画だった。 日常生活においてパッとしない少年が、ある事件を境に魔法を使う能力に目覚め、仲間を集める旅に出て、世界を守る為に魔物と戦う物語。その世界観に、悠人は夢中になった。 それから悠人は、その類の書物をむさぼるように読
「何の冗談だ、これは……」 この40年、幼馴染の小百合〈さゆり〉以外に心を奪われたことのなかった魔法使いの俺に今、こいつは何を言った? アニメにしてもクレームものだぞ。 幼馴染からのとんでもない話に、悠人〈ゆうと〉の頭は混乱した。その悠人に、小鳥〈ことり〉が背後から抱きついてきた。 さっきとは違う感覚。自分との結婚を望む少女の抱擁に、悠人が顔を真っ赤にして小鳥を振りほどいた。「待て待て待て待て、冗談にしても質が悪い。エイプリルフールもまだ先だ」「大好き」「人の話を聞けえええっ」「聞いてるけど……あ、ひょっとして悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、好きな人とか付き合ってる人とかいるの? お母さん以外に」「いや、そんなやつはいないが……」「よかった、なら小鳥にもチャンスあるよね。3ヶ月の間に小鳥の想い、いっぱい伝えてあげるからね」 悠人の混乱ぶりを全スルーして、小鳥がそう言って無邪気に笑った。 * * * 時計を見ると22時をまわっていた。「もうこんな時間。ご飯まだだよね、ごめんね」 そう言って小鳥は、悠人が買ってきたコンビニ弁当を電子レンジに入れた。「悠兄ちゃん、こんなのばっかり食べてるの?」「腹が膨らめばなんでもいいんだよ、俺は」「そっかぁ……やっぱり男の一人暮らしはダメだね。これからは小鳥が毎日、おいしいもの作ってあげるからね」 そう言って小鳥は、リュックからパンを出した。「そういうお前はそれなのか」「うん。今日はバタバタすると思ってたから」 悠人がそのパンを取り上げる。「育ち盛りがこんなんでいい訳ないだろ。これ食べろ」 そう言って、レンジから出した弁当を小鳥の前に置いた。「でもこれは、悠兄ちゃんのお弁当で」「俺は腹が膨らめば何でもいい、そう言っただろ。お前こそしっかり食べないと。色々とその……栄養偏ってるみたいだし」 と言いながら、思わず胸に視線をやってしまった。それに気付いた小鳥が赤面し、慌てて胸を隠す。「こ、これはまだ、まだ育ってる途中だから!」「いいから食べろ。明日は土曜で休みだけど、それでももうこんな時間だ」「じゃあ、ここにいてもいいの?」「いいも何も、もう来てしまったんだ。嫁さん云々はともかくとして、せっかくの卒業旅行だろ? いいよ、しばらくいても」「ありがとう、悠兄ちゃん!」 そう言って小鳥がま
「悠〈ゆう〉兄ちゃん、泣いてるの?」 夕焼けに赤く染まった公園。 ベンチに座り、肩を震わせている男に少女が囁く。「悠兄ちゃん寂しいの? だったら小鳥〈ことり〉が、悠兄ちゃんのお嫁さんになってあげる」 そう言って、少女が男の頭をそっと抱きしめた。 * * * 3月3日。 終業のベルがなり、作業を終えた彼、工藤悠人〈くどう・ゆうと〉が事務所に戻ってきた。「お疲れ様でした、悠人さん」 悠人が戻ってくるのを待ち構えていた、事務員の白河菜々美〈しらかわ・ななみ〉が悠人にお茶を差し出す。「ありがとう、菜々美ちゃん」 悠人が笑顔で応え、湯飲みに口をつける。 その横顔を見つめながら、菜々美が深夜アニメ『学園剣士隊』について話し出した。感想がしっかり伝わるよう、一気にまくしたてる。「やっぱり悠人さんの言ってた通り、生徒会が絡んでるみたいでしたよね。最後のシルエット、あれって生徒会長ですよね」 悠人に心を寄せる菜々美にとって、悠人と話せる昼休み、そして終業後の僅かな時間は貴重だった。 工場主任で、作業が終わってから書類整理の仕事が残っていると分かってはいるが、限られた時間、少しでも悠人と話したいとの思いに負け、こうして話し込んでしまうのだった。 机上の納品書に判を押しながら、悠人もそんな菜々美の話に、いつも笑顔でうなずいていた。 アニメの話がひと段落ついた所で、菜々美が映画の話を切り出してきた。「実家からまた送ってきたんですよ、優待券」「ほんと、よく送ってきてくれるよね、菜々美ちゃんのお母さん」「民宿組合からよくもらうんですよね。で、よかったらなんですけど……悠人さん、また一緒に行ってもらえませんか」「そうだね……次の連休あたりになら」「あ、ありがとうございます!」 菜々美が嬉しそうに笑った。 * * * コンビニに入った悠人は、ハンバーグ弁当と味噌汁、コーラをカゴに入れてレジに向かった。 家のすぐ近くにあるこのコンビニの店長、山本とはここに越してきた頃からの付き合いだった。「奥さんが留守だと大変だね。弥生〈やよい〉ちゃんは今、東京だったよね」「ええ、池袋の方に行ってるそうです。あさってには帰ってきますけど、また遠征話で盛り上がりそうです……って、だから嫁さんじゃないですから」「あはははっ。早く結婚しちゃいなよ、あん